「雪、雪、雪、、、」2011年1月31日(月)

ウイークリー瞑想

 2週間近く前に最上川の隠れ家に入りました。すべてが雪に
覆われていました。よくこの雪の中で生活していると驚くのです
が、生活している人は当然のことように活動しています。昨年もこ
の時期に来ていますので、今年の雪の多さには地元の人も驚いてい
ます。すぐに大阪と関東での奉仕に出かけました。今度は、雪はな
いのですが、雪で冷え切った北風が山を越えて平地に冷たく吹いて
いました。昨晩遅くまた隠れ家に戻ってきました。朝から雪は降り
続いています。天には尽きることのない雪の源があるかのようです。

 幻想的な雪景色は心を洗ってくれます。洗い清めてくれると言う
より、心が雪景色にとけ込んで、風雪で灰色の心が流される感じで
す。自分の心の動きを、雪景色を見ながら観ているのです。心のど
こかにある暗いイメージが、目の前の雪景色が反映しているので
す。降り続いている雪景色が、見続けていることで心の深くに入り
込んでくるのです。陽がほとんど出てきません。照り出された雪景
色は目を開けられないほどのまばゆくなります。いま目の前に広
がっている雪景色はどんよりとした、押しつぶされそうな感じで
す。それでも生きなければなりません。

 今回はヨナの怒りを通して、心にある怒りを取り上げています。
自分の怒りに、ヨナの怒りを認めることで、自分で触れる作業で
す。ヨナの不信仰を責める必要はありません。正直に怒りをぶつけ
ることで神とのパイプが広がるのです。心のうちにある怒りを神に
持って行くことで、自分の心が開かれ、神との交わりが広がってい
くのです。それでも怒りを認めることは辛いことです。覆い隠し、
あたかもないかのよう振る舞い、そのように教え、教えられてきた
からです。怒りは見えないように深く潜行しています。死火山だと
思っても地下深くでマグマは静かにうごめいています。マグマです
ので温まりを持っています。まるで人を温めて、その人の人格にま
でなっています。

 しかしその心は、ヨナが通過した三日三晩のあの魚の腹の真っ暗
闇を示しています。一寸先も見えない暗闇で、ただ自分の心に語り
かける以外にないのです。闇の向こうには静かにうごめいているマ
グマが見えます。そこに触れることになることになります。とても
慎重に触れるのです。気をつけないと爆発を起こすのです。触れて
あとはじっと見つめる以外にないのです。そんな場面に時々出会い
ます。心の深くのマグマに気づいてたじろいでいる姿です。それを
見ている自分に驚いているのです。そんな戸惑いの表情を垣間見ます。

 目の前の雪景色が変わってきました。太陽に照り出されたまばゆ
いばかりのパノラマが展開しています。山並みの雪が浮き彫りにさ
れ、木々の雪もこんがり焼き出され、畑の雪は真新しいジュータン
のように引き詰められています。心の景色が明確になってきまし
た。空と山が切れ、山々と畑の境が出てき、木々のあり場がはっき
りしてきました。鳥たちがこの時とばかりに飛んでいます。

上沼昌雄記

Hello world!

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神学モノローグ

「三匹の蟻」2011年1月10日(月)

 年末から年始にかけてロング・ビーチの妹夫婦のところにお世話 
になった。土地柄と建物の年数の関係か、小さな蟻がよく出てき 
た。台所で何度も見つけた。ある晩に寝る前の洗面所で、シャワー 
室を伝わって壁伝いに降りてきて、どうも洗面所にある清掃用のス 
ポンジにあかたかも巣を見つけたように、列を作っている蟻の行進 
を見た。妹が処理するだろうと思ったので、何もしないでそのまま 
休んだ。

 次の朝に洗面所に行ったときに、あたかもそのスポンジから寝過 
ぎて出てきたかのように、三匹の蟻(蟻は三匹と数えるのだ!)が 
洗面の上の壁との境に、行き場を失って、出口を探しているかのよ 
うにたむろしていた。妹が昨晩壁をきれいにしたのであろう。列を 
作って降りてきたその道が消毒か何かで全く消えてしまったのであ 
ろう。ということは、蟻たちは自分たちの通り道に何かのしるしか 
臭いを残して、それをたどって行けば目的地にも、帰り道も確保で 
きるようにしているのであろう。

 洗面が終わっても、その三匹の蟻たちがどのように帰り道を探る 
のであろうかと興味があって、しばらく眺めていた。壁伝いに上ろ 
うとしたり、洗面所を降りて来ようとしたり、それは必死に帰り道 
を探しているのが分かる。一匹の蟻が壁の少し上の方に自分たちが 
辿ったあとを探したようで上っていった。同じようにもう一匹がス 
ポンジへの道を見つけたようで洗面器を降りていった。そしてその 
中に隠れてしまった。上に登った蟻は、とうとう道を見つけたよう 
でそのまま鏡の上にまで至っていた。そのまま自分だけその道を 
辿って帰ってしまうのだろうか、何とも言えない好奇心に誘われて 
眺めていた。自分がこのような場合であったら、そのまま一人で 
帰ってしまったかも知れないと、心のどこかでそんな思いを認めな 
いわけにいかないからである。

 この蟻は自分たちの道が確かなものと分かったのか、しっかりと 
Uターンをして戻ってきた。正直驚いた。誰がそんなことを教えた 
のだろうか。あとの二匹を救出するためにしっかりと辿ったあとを 
そのまま降りてきたのである。そして残っていた一匹に出会って、 
「道を見つけたから俺に付いてこい」と言っているかのようであ 
る。それでも「あのもう一匹の仲間はどうした」と二匹で探し回っ 
ている様子であった。スポンジに戻ってしまったあの一匹の蟻にど 
のように伝えるのだろうかと思いながらも、親心か何かは分からな 
いのであるが、またいつまでも洗面所にいるわけにいかないので、 
スポンジのなかの蟻を傷つけないように、洗面所の上に戻す作業を 
した。何度か試しているうちにようやくその一匹を仲間に戻してや 
ることができた。こちらが助けなくても自分たちで何とかしたであ 
ろう。こちらはただ結末が欲しかったのである。三匹の蟻は仲良く 
帰っていった。

 動物を擬人化して教訓を語るイソップ物語のような寓話が、長い 
人間の歴史のなかで用いられてきたことに、ただただ納得した。自 
分だったらあとの仲間を置いて一人だけで帰ってしまったかも知れ 
ないという思いを消すことができないからである。そんな自分が恐 
ろしくなった。あの蟻はそれが当たり前のようにUターンして戻っ 
ていった。その創造のメカニズムには脱帽である。逆に人間の意識 
と自由意志は、とんでもない悪をもたらす。歴史が語っている通り 
である。それも創造のメカニズムのひとつなのであろうが、何とも 
面倒な恐ろしい世界にまぐれ込んだものである。

 それにしてもあのヨブへの神の答えが「さあ、河馬を見よ。」 
(40:15)、また、「あなたは釣り針で、レビヤタン 
を釣り上げることができるか。」(41:1)となってい 
るのも、想像以上に深い意味があるのであろう。苦しみの極みにい 
るヨブへの、答えになっていないとも言えるし、それしか答えがな 
いとも言える。明らかに次元が違う。人間を越えた不思議な動物、 
それが神の答えである。ただ脱帽。

 戻ってきて地元の町の映画館でナルニア国物語の映画の第3 
部「アスラン王と魔法の島」を観た。あのネズミ戦士の活躍であ 
る。ファンタジーで聖書の世界を伝える手法、これにも脱帽。

上沼昌雄記