久しぶりにというか、珍しくというか、山の教会の礼拝に2週続けて出席ました。新しい顔ぶれが集っています。というより向こうから見れば、私たちの方が初めての出席者に写るでしょう。そのような新しい顔ぶれが定着し、さらに新しい人を連れて来ているようです。しかし、どのような背景を持たれている人たちなのか知るよしもありません。
教会のある山のなかは、ある部分はサクラメントのベットタウンで、そのような人たちが住んでいます。ある部分はヒッピーの生き残りとか、ベトナム戦争の帰還兵が住んでいると言われます。いずれサンフランシスコ湾に流れ込む二つの支流の分水嶺の上に隔離された感じの町です。皆それぞれ何か曰くがあってこの山の町に住んでいる感じです。人生の大きな傷が大きな自然のなかで静かに癒されることをじっと待っているようです。その過去には触れないで、時間が癒してくれることを待っているかのようです。
牧師夫婦はサンフランシスコ近辺に住んでいます。2時間はかけて毎週説教に来ています。そういう状況であるという上でさらに牧師として招聘したのです。それだけの意味があると、何度か説教を聞くうちに教会員が気づいたのです。今日はガラテヤ書5章から、肉の思いと御霊の思いの相克について語りました。これは自分のことですと前置きして語り出しました。身近な親戚の人たちに対しての肉の思いに支配されていると言うのです。教会内にも人間関係でぎくしゃくすることがあるようなのですが、自分の葛藤として、自分に対する試練として率直に語るのです。
その説教だけで、後は牧師が地元に住んでいなくても、いつも声をかけてくれなくても、教会員が充分満たされていることが分かります。その説教だけで養われるだけの準備をし、それだけの情熱をかけていることが分かります。出席者はその一言も漏らさないように耳を傾けるのです。しっかりと訴えるものがあります。
そのような説教に人びとが少しずつ反応をしてきているようです。長い間隠されていた傷がどこかで触れられてきているのでしょうか。こちらも遠慮して話しかけないこともあって分からないのですが、それぞれが何か曰くがあって長く隠れて生活してきた人たちが足を向けてきているかのようです。どこかで内側に長くおおっていたもの、膿のように抱えていたものに触れられてきて、礼拝に足を運んでいるかのようです。何か出来上がったというか、整っている教会には居心地が悪くて参加できないような人たちが、少しずつ顔を出してきているかのようです。この教会でなければとてもではないが礼拝に参加できないと思われる人が徐々に集ってきています。
そのような人たちを、実はあのチャック・スミスの大きな教会の夕べの聖書研究会でも見てきたことを思い出しました。男性たちのなかには願ったわけでもなくて独り身になってしまったような人が、そのことで裁かれるようなことがなく、礼拝堂での夕べの聖書研究で聖書を開き、メッセージに耳を傾けているのです。ここでなければ自分はいられないという思いが何となしに伝わってきます。そのような人はとてもいられそうもない整った教会を、アメリカでも日本でも見ます。それなりに整っていて、居心地が良いのですが、そこは、そのような整った人たちだけがいられる場なのです。
この山の町にもいくつか教会があります。私たちの教会は結構歴史がありますが、今は2時間かけて通ってくるだけの牧師です。それでも説教を通して、今までどこにも行けなかったような人たちが、何とか居場所を見つけることができる教会になってきているようです。何かに惹かれるものがあって説教に耳を傾けに来ているようです。それだけの説教をしています。それだけで教会が動くのです。それに応える人たちが、全く思いがけないところから起こされているかのようです。教会とは?!、と唸らされます。
上沼昌雄記