「ああ、ソロモン!?」2013年1月28日(月)

 王としてのダビデ、王としてのソロモンの歩みを妻と読み進めて 
います。結構大変な中を、そしてこれで大丈夫かなと思わされると 
ころを通ったというか、通らされたダビデに比べて、2代目の 
王としてむしろあまり問題もなくスムーズにきたソロモンが、その 
栄華を極めたあとに、こともあっさりと堕落していく様に、これは 
どうしたことかと妻と共に戸惑っています。

 すでにエジプトの王パロの娘を妻としていたソロモンです。王に 
なる前のことです。そのソロモンがイスラエルの王となることも、 
ダビデの歩みを振り返ると何とも複雑なことです。新約聖書では 
「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」(マタイ1: 
6)と、あえて断りを入れないといけないことでした。なんと理解し 
て良いのか困惑するような筋道でソロモンが王となるのです。

 若いソロモンは、しかし、王となってダビデのあとこの民をどの 
ように導いたらよいのか、神に知恵の心と判断力の心を謙虚に求め 
ます。神はその求めに応えられます。それだけでなくその謙虚な心 
に感じてそうしたかのように、「富と誉れ」を与えることを約束す 
るのです。そんなことまで約束していいのですかと、神に言いたく 
なるところです。ともかく約束通りに、その知恵と判断力で民を導 
き、ダビデに約束してあった神殿を完成するのです。

 王権の確立と神殿の完成、これは神の導きでありながら、そうな 
らざるを得ない歴史の導きのような面があります。ソロモンがさら 
に宮殿を完成し、パロの娘のための家を完成し、その栄華は絶頂に 
達します。そこから、それも歴史の逆らえ得ない流れのように、さ 
らに神の導きのように、それ以前よりもはるかに急速に落ちていく 
のです。 

 すでにパロの娘を妻としていました。その上で栄華を極めてきた 
のです。しかしその頂点に達したときに、歯止めがきかなくなった 
ように多くの外国の女を妻とします。それは明らかに神が禁じてい 
たことでした。そんなことは王であるソロモンには通じないかのよ 
うに、思いのままに多くの王妃を迎えるのです。王妃700人、 
そばめ300人! そして惑うことなく記されています。「その 
妻たちが彼の心を転じた。」(1列王11:3)

 若いときには謙虚に神に知恵の心を求めたソロモンでした。年を 
とってソロモンは、その心は慢心したのか、判断力を失ってしまっ 
たのか、悔い改めて神に立ち返る心がなくなってしまいました。ダ 
ビデも結構な面があるのですが、どこかで神に立ち返っています。 
ソロモンの心を引き留めるものはすでになくなってしまったようで 
す。神はそんなソロモンに2度も現れています。妻は、2 
度も主が現れたと、何度も言います。それを無視したのか、それこ 
そ老人ぼけをしてしまったのか、決定的な境目を越えてしまいまし 
た。「ああ、ソロモン!」と嘆きたくなります。同時に「どうして 
神は?」と叫びたくなります。

 それでも神はソロモンを滅ぼすことをしません。全くダビデのゆ 
えに、ソロモンは王として留まるのです。それでも王国が二つに分 
かれていくことになります。ソロモンの家来のヤロブアムが北の 
10部族を率いて王となります。それに対して、誰を母としているの 
か記されていないのですが、ソロモンの子であるレハブアムがひと 
つの部族、ユダ族を率いて南の王となります。それは全くダビデの 
ゆえに、「一つのともしび」(11:36)、すなわち、 
ダビデの子孫を残すためです。

 「ソロモンの業績の書」(11:41)、「箴言」と 
「伝道者の書」が残っています。そこに記されていることは真実で 
す。そのソロモンが神に背いてしまって、神の民の歩みに多くの苦 
難をもたらしたのも事実です。神はそのすべてを知っておられなが 
ら、なおそのなかでご自分の計画を実現していくのです。それは神 
の民に大変な苦難をもたらすものです。そしてそれ以上に、それを 
行わなければならない神は、文字通りに「苦難の神」以外に何もの 
でもないのです。イザヤ書の「苦難の僕」が当然のように出てきます。

 これも神の計画といえば、その通りなのですが、それにしてもあ 
の知恵に満ちたソロモンがあっさりとその栄華を極めたあとに滑り 
落ちていくのには、「どうして?」という問いがついて回ります。 
決して私たちとは無関係ではないのです。それでもその都度困惑し 
ながら、「それではどうしたらよいのか?」と自問しつつ、それで 
もしっかりとご自分の計画を実現される神がおられるのです。ローマ書 
9-11章で、パウロ自身が問いかけなら、最後に計り知れない 
神の計画に驚いているかのようです。

上沼昌雄記

「造り主の思いは!?」2013年1月17日(木)

 天地万物の造り主が、ご自分の造られた世界がどのようになって 
いるのか、そのことに心を砕き、心配をされるのは当然である。し 
かしあまりに当然なので、そのまま棚の上に仕舞い上げられて、あ 
る面で祭り上げられて、場合によっては閉じ込められてしまってい 
る。そのままでも全能なる神の創造信仰に傷つくことはなく、むし 
ろそうすることが神を神としているような思いにさせられる。

 そしてこちら側では、何とかその神の思いを知って、神の子にふ 
さわしく生きようと努力するのであるが、何せその創造主は遠くに 
祭り上げられているので、届くことができない。それで何とか地上 
で神の子にふさわしく生きて、いずれ神の国に、すなわち天国に行 
くことをひたすら願うのである。そのために、自分がそれにふさわ 
しく生きているかどうか、信仰の確信を持っているのか、どうした 
ら恵み深く生きることができるのか、そのための手引き書を聖書か 
ら作り出して、何とか自分を納得さている。

 しかし、そんな棚に閉じ込められていることに神ご自身が満足し 
ないで、これは自分の造った世界で、その世界が病み、痛み、傷つ 
いていることをみて、何とかしようと思って、その棚から降りてき 
て動き出したら、どのようになるのであろうか。ご自分が造られた 
ので、どこが弱っていて、または破壊されていて、何が足りないの 
かはよく分かっている。もうこれ以上放って置くことはできないの 
である。

 アメリカに移り住んで3年半かかって建てた小さな家に、すでに 
20年近く住んでいる。自分で建てたので少なくともこの家の造り主 
である。全くの素人であるが自分で建てたので、壁のなかの配線も 
床下の配管もどのようになっているのかは今でもだいたい覚えてい 
る。冬に嵐になって、すきま風が入ってくるときに、どこから入っ 
ているのかが分かる。手抜きをしたわけでない。その部分をコーキ 
ングすることを知らなかったのである。少なくとも住みながら家の 
ことがいつも頭にある。そして造り主の責任で、自分で修理をする。20 
年近く経って壁に取り付けのヒーターの取り替える必要が出てき 
た。昨年の夏に外壁から切り離す作業をしているときに、空にヘリ 
コプターなどが飛んできて賑やかになって、川向こうの山で10 
日間燃え続いた山火事が起こったのを良く覚えている。

 誰でも自分の作ったものには特別な思いがある。そうだとすれ 
ば、全地万物を造られた創造者にとってはなおさらのことである。 
その神が何とかしようとしているのが神の歴史である。神はそのた 
めにイスラエルの民を選ばれた。同時にその民がまた問題の種にも 
なってしまっている。そうだとしたら、創造主である神はさらにど 
うしたらよいのであろうか。そのために神はひとり子であるキリス 
トをメシアとして遣わされた。同時にまたそのメシアの民とされた 
ものが、問題の元にもなってしまっている。家庭が崩壊し、国同士 
が争っている。被造物は今でもうめいている。そして、神もうめい 
ている。

 それでも全世界は神の創造の作品である。決して見捨てることはな 
い。 神はイスラエルを通して、メシアの民を通して、新天新 
地を約束している。神ご自身の誠実さである。聖書はその物語であ 
る。真実なる神の歴史の書である。そしてそれが聖書であるとすれ 
ば、その真実な、誠実な神にどのように応えていくかが、私たちの 
誠実さの現れとして求められている。それは単に自分の信仰が安定 
して、すべてがうまく行くという以上のものである。神の誠実さに 
犠牲がともなっているように、私たちの誠実さにも犠牲がともなっ 
てくる。困難な神の民の歩みである。聖書はその記録である。

 そんな視点で聖書を読み直している。少なくとも造り主の思いを 
身近に感じる。困惑し、悔やみ、悲しみ、それでも何とかしようと 
する造り主の思いである。放っておくことができない。自分の家は 
自分で修理する以外にない。人に頼めない。自分の責任である。聖 
書は、何とかしようとしている神の物語である。手引き書ではな 
い。実際に何とかしている神の歴史である。それに巻き込まれたら 
神の民も当然振り回される。 預言者ヨナの怒りであり、預言 
者エレミアの涙である。

 そんな造り主の思い、聖書の読み方を、この2,3年、N.T. 
ライトを通して教えられている。学術書も一般書も書いているが、 
何かそのように聖書を読んだら如何ですかと丁寧に勧めているだけ 
のようにも思う。自分の信仰のあり方だけに思いがとらわれている 
訳にいかないのではないかと、静かであるが、鋭く指摘もしてい 
る。それで、それがクリスチャンとして当たり前に思われている二 
つの面で反論を受けている。一つは義認論で、もう一つは天国論で 
ある。あたかもライトがそれらを否定しているようにとられている 
が、それがクリスチャンの最終目標でないと言っているだけであ 
る。死んだら天国に行ける、そのために自分が義とされているかど 
うか、そんな自己中心的な世界だけを聖書が取り扱っているのでは 
ないと、結構確信を持って語っている。

 神はご自分の世界を何とかしようとしている。私たちはそのため 
に召されている。

上沼昌雄記

「和辻哲郎『鎖国』を読む」2013年1月10日(木)

 最上川の流域にもキリシタンの史跡と殉教碑がある。その最上川 
からキリシタン宣教師が迫害を避けて山越えで酒田に出て、日本海 
を渡って北海道に入り、さらに樺太に渡りシベリヤを経由して本国 
に帰ったという話もある。それは1639年のことで、日本で鎖 
国が体制として確立したときである。その鎖国について和辻哲郎が 
書いている岩波文庫(上下)を、最上川の隠れ家の川向こうで牧会 
されている坂本献一牧師から昨年の秋に紹介されて、ようやく読み 
終えた。

 和辻哲郎は『古寺巡礼』や『風土』で有名である。『鎖国』は戦 
後に書かれたもので、副題「日本の悲劇」が付いている。風土論に 
基づく倫理学、国家論を打ち上げる和辻哲郎にとって、敗戦は 
ショックであった。「太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情 
けない姿をさらけ出した。」これが序説の冒頭の言葉である。そこ 
には決定的な欠けがあったからだと言う。それは「科学的な精神の 
欠如」であるというのが主張で、その傍証のために書かれたのが 
『鎖国』である。岩波新書で『和辻哲郎』を書いた熊野純彦は、 
『鎖国 日本の悲劇』(1950年)が「和辻の失意のたまもの 
である」(153頁)とまで言っている。

 ヨーロッパが東と西に世界的な視野を拡大していった近世の初め 
の、いわゆる大航海時代の記述が、この本の3分の1以 
上続いている。しかもその記述の細かさに驚く。ようやく日本の近 
世の初めの状況の説明になるのであるが、西洋の拡大にともなって 
日本に入ってきた宣教師たちの活動について、これも事細かに記さ 
れている。和辻本人がこれは「キリスト教史」ではないと、あえて 
断りを入れないといけないほど日本宣教史の一面も持っている。

 そのキリスト教が為政者の中枢にまで届いていながら、同時に為 
政者たちの保守精神によってキリスト教が閉め出されるようなかた 
ちで、西洋の世界的視野を閉め出し、「日本人は近世の動きから遮 
断される」(下307頁)ことになる。鎖国は250年に及 
ぶことになった。それは「ベーコンやデカルト以降の250年の 
間」であり、「イギリスのピューリタンが新大陸へ渡って小さな植 
民地を経営し始めてからあの広い大陸を西へ西へと開拓していって 
ついに太平洋に到達するまでの間」(同)のことであった。

 その新大陸を開拓者たちが西に向かっていって辿り着いた太平洋 
側に、いま住みついている現実を振り返ると、さらにその太平洋の 
向こうで日本が250年にわたって自国を封鎖していたことが現 
実感をともなってくる。すなわち、もし鎖国がなくて日本が開国さ 
れていたらどうなったのだろうかという、歴史に対する仮定であ 
る。歴史に対する「もし」は意味がないといえばその通りである 
が、この問いは逆に、250年の鎖国によって日本と日本人は何 
を負い、何を負わされることになったのかという問いになる。

 そしてそのこと自体が和辻哲郎の問いであり、結論でもある。ま 
さに「日本の悲劇」である。鎖国の影響は「国民の性格や文化のす 
みずみにまで及んでいる。」それは「開国後の80年をもって 
しても容易には超克することはできなかった」ことである。「現在 
のわれわれはその決算書をつきつけられているのである。」(同) 
これが和辻の結論の最後の言葉である。

 すでに開国してから150年以上経っている。 鎖国の 
影響が国民の性格や文化のすみずみにまで及んでいるという和辻の 
提言は、今にも当てはまると言えるのだろうか。確かに世界中の情 
報が日本に入ってくる。日本人も世界中に出ている。鎖国は全く過 
去のことになった感がある。しかし同時に、メンタルな意味で日本 
と日本人が自国のなかに閉じこもってしまうイメージはぬぐい去る 
ことができない。日本文化の独自性の優越感が、他を否定する劣等 
感に相まって、メンタルに自分のなかに閉じこもってしまうのであ 
る。そんな面を負っていることを海外で生活していても自分のなか 
に感じる。

 和辻哲郎の「科学的な精神の欠如」に関わるかのように、近世哲 
学史家の大村晴雄先生が日本の開国に関わる洋学の受容に関して、 
キリスト教関係書が除外されたことを『日本プロテスタント小史』 
(いのちのことば社)で鋭く指摘している。西洋の技術だけが取り 
入れられ、ヨーロッパの精神であるキリスト教は上手に除外されて 
きたのである。そのための蘭語の習得だけが手だてとなった。それ 
はかつてカトリックであるキリスト教を容認しているようであって 
も、結局は西洋の技術だけを目的にしていたと和辻のいう織田信長 
の姿勢にも通じる。今回はプロテスタント国であるオランダ語の習 
得が手だてとなった。精神と技術を問題なしに峻別できる日本精神 
であり日本文化である。

 開国にともなってプロテスタント宣教が日本で始まった。もし鎖 
国の影響がいまでもあるとすれば、それは組織化された整ったキリ 
スト教の受容であって、精神としてのキリスト教を上手に除外して 
いることになるのではないか。学問として整ったキリスト教の習得 
であって、精神としてのキリスト教との格闘は問題にならない。神 
学校での手だてが聖書の原語の習得に傾いていることはその証左で 
ある。あたかも語学学校のようであるといわれる所以である。結果 
的には、鎖国の影響を受けている日本精神にかたちだけのキリスト 
教の装いを整えているだけである。そんな姿のままでいられる自分 
に恐れを感じる。

上沼昌雄記

「神の民への、神の取り扱いは、、、」2013年1月3 日(木)

 この数年ユダヤ人哲学者レヴィナスの本を読み、また近年イギリ 
スの新約学者N.T.ライトの一世紀のユダヤ教を中心に聖書全 
体を読み直していく作業に目を向けている。その結果、基本的には 
旧約聖書での神の民の神の取り扱いに思いが向いていく。エデンの 
園からの放出、出エジプト、バビロン捕囚へと向かう神の民の歩み 
と、そこにある神の計画と取り扱いである。さらに、ユダヤ人が今 
でもその延長の上に生きているという事実である。アウシュビッツ 
をその流れで受け止めている神の民のしたたかさである。

 暮れから家族のクリスマスをシカゴでということで、長女の瞳宅 
にきている。ふたりとも風邪を引いてしまって5日ほど滞在を 
延ばした。そのゆえに、念願であったシカゴの北にあるホロコスト 
記念館を大晦日の日に訪ねることができた。シカゴの北にはニュー 
ヨークに次いでユダヤ人の多い地域である。1970年代にネオ 
ナチの行進がなされたことが契機になってこの記念館が建てられた 
と言う。

 昨年一年間国防省の仕事でアフガニスタンに行っていた次女の泉 
が、すでにワシントンで仕事を始めていている。ユダヤ人女性で戦 
後の日本国憲法の起草、特に男女平等の項目に関わったベアテ・シ 
ロタ・ゴードンという方が89歳で暮れの30日に亡くな 
られたというニュースを、年明けに送ってくれた。戦前に父親が音 
楽家として日本に招かれて、演奏活動と教授活動をしているときに 
ナチスによる反ユダヤ主義のために帰国することができなくなっ 
た。ベアテはアメリカの大学に送られた。戦時中両親との連絡を取 
ることができなかった。日本語が堪能なベアテはマッカーサーの下 
で、日本で働くことになった。軽井沢に逃れていた両親との再会を 
果たした。その時に日本国憲法の起草に関わったのである。

 神はご自分の民を散らす。神の民は散らされたところでなお神の 
民としての忠実さを尽くそうとする。特別なことではなく、神の民 
としてどこにあってもできるだけ忠実に生き続けることである。バ 
ビロンにすでに捕囚の民となった同胞にエレミヤは語る。「家を建 
てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息 
子、娘を生み、あなた方の息子には妻をめとり、娘には夫を与え 
て、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。私があ 
なたがたを引いていったその町の繁栄を求め、そのために主に祈 
れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(29: 
5-7)

 まさにこのエレミヤ書を中心にクリスチャンの社会的なあり方を 
説いている社会学者のJames Davison Hunter の Faithful 
Presenceについて、暮れに長男の義樹と3時間ほど語り合うこ 
とになった。それはなんと言ってもN.T.ライトの視点である、神の 
Faithfulnessと、イエス・キリストのFaithfulnessと、クリ 
スチャンのFaithfulnessに共通するところがあるからであ 
る。どのようなことが起ころうとも、どのような境遇に置かれよう 
が、なお忠実に神の民として生きていくのである。預言者ヨナのよ 
うにたとえそのことで納得できないで神に怒ることがあっても、な 
お神の民として歩み続けることである。

 教会は神の民として歩みをなしているのだろうか。あるいは、単 
に西洋社会の組織化された一つの機関として存在しているだけなの 
だろうか。散らされることがあっても、どこにあっても忠実に生き 
ることを求めているのだろうか。あるいは、自分たちの存在とその 
延命のために神の恵みを求めているだけなのだろうか。

 アメリカと日本の教会を限られたところでしか観ていないが、ど 
うしても教会が自己充足的な方向に動いているように思える。それ 
を支える神学がある。それでもそれが福音的であると言い張ってき 
た。しかし神の民の歩みを振り返れば振り返るほど、離散の神の民 
を神がどこかで指導し、散らされる民を神が神の国の建設のために 
またどこかで用いているように思えてならない。そうだとすると神 
はいずれ、自己充足的な教会の歩みの方向を変えることになる。背 
き続ける神の民への神の真実さが教会にも現される。そんなときが 
近づいているようである。

上沼昌雄記