6週間の日本の旅の中間点で故郷前橋に立ち寄りました。前橋在住でかつて大村晴雄先生のゼミにご一緒させていただいた元群馬大学教授の小泉一太郎氏と一昨日、宇都宮に101歳になられた大村先生をお訪ねしました。5月にお会いしてから骨折をされ、寝たきりと言うことで心配をしていましたが、顔つやも良く、食欲もあるということで安心をしました。ベットを45度ぐらいに起こして対応してくださいました。
すでに目は見えないのですが、耳元でしっかりと話せば通じます。お話しも注意して聞けば聞き届けられます。イラク戦争に行った息子のことを覚えていてくださったり、日本ではどこまで行くのかと聞いてくださったり、友人で一度先生を訪ねた方のことを尋ねてくださったり、小泉氏の奥様の手製のおまんじゅうを美味しそうに召し上がったり、その様子はいつもとは変わらないものです。
ひとまず話が終わって、大変興味があったので、大村先生に聞いてみました。毎日ベットにいて退屈しないですかと。にこりと笑って、ヘルパーさんによく聞かれるが、退屈しないというのです。昔勉強して覚えている文章を思い出して、そこのことを思い巡らしていると、新しい発見をするというのです。いまは「ア・プリオリ」のことを考えているとうれしそうに言います。考えることが仕事だからと当然のように付け加えます。
それはカントのいうア・プリオリのことでしょうかと伺いましたら、おもむろに「上沼君、それはヨハネ福音書のはじめの<初めにことばありき>に結びつくのかね」と、真顔で聞いてこられました。一瞬返答に困ったのですが、「先生はそのように考えられているのですか」と聞きましたら、「そのように考えている」と言う返事でした。
ア・プリオリ、経験する前にすでに与えられているもの、哲学者を悩ますテーマ、しかしよく考えてみるとすでに経験する前に所与として与えられているもので人も世界も成り立っていること、あまりに当たり前で見逃しているもの、それゆえに哲学者が見逃さないで考えている課題、そんなテーマをベットに横になりながら思い巡らして、退屈することはないという大村先生の姿勢にただ圧倒されるだけです。
そのア・プリオリをヨハネ福音書のはじめの「ことば」に結びつけてみる大村先生の研ぎ澄まされた信仰を感じます。代々の哲学者が考え抜いたア・プリオリは、すでにことばであるキリストのうちに、キリストを通して所与として与えられているという、信仰の卓越性です。理性とは隔絶しているようで、理性を生かす信仰の超越的先行性です。もう一度目が見えるようになって、いままでしてきた聖書研究会をしたいと言われます。イザヤ書を数年来学んでおられます。
ア・プリオリと言われて、カントのことですかと伺ったのですが、大村先生はキリストを通しての神の啓示の世界を観ているのです。それは先生も含めて誰もが考えついたものではなくて、ただ神から与えられたものです。信仰と経験以前に与えられているものです。私たちの向こうにあって神が示された奥義の啓示です。まさにア・プリオリとしての啓示に大村先生は思いを向けています。厳粛なことです。
いつものようにお祈りをさせていただきました。その終わりに大村先生は「アーメン、アーメン」と声を振り絞って鳴り響くように神に語りかけました。信仰者としての最大限の応答をされました。その響きは天に届き、心にしっかりと染み込んでいます。
上沼昌雄記