日本に入ってすぐに大阪と京都で奉仕をして、先週末は東久留米
の教会の50周年礼拝と聖日礼拝を守りました。帰りに宇都宮
の郊外に、この5月2日に101歳になられた大村晴
雄先生をお訪ねしました。ノックをして部屋にはいると、眼も御不
自由になられたのですが、「上沼さん?」と言って、私を待ってい
てくださったことが分かりました。その声はいつものように張りの
あるものでした。しかし、昼間でもよく寝てしまい、自分を打ちた
たいて「起きよ」と言って、起き上がるようにしていますと、現状
を説明してくれました。
耳も少し遠くなられたので、会話もスムーズにはいかないのですが、1
年半前ほどに召されたある牧師のことに触れてこられて、話に熱が
こもってきました。仏教を学ばれて日本の宣教のために労された牧
師です。ですがその牧師の中に「もし親鸞が聖書を知っていたら」
というテーゼのようなものがあることに、危惧を示されました。親
鸞はどんなことがあっても親鸞で、もし親鸞が聖書を知っていたな
ら、聖書を親鸞のほうに引き寄せてしまうであろうというのです。
ただ信仰により、ただキリストによるという、まさにプロテスタン
トの精神が崩れてしまうであろうというものです。
それは混合宗教だとまで言われます。ただキリストによる純粋な
信仰をあやふやにするものであると繰り返して言われます。そのこ
とを頭のどこかにしっかりと覚えていておいてと言われます。先生
の中の深い危惧であって、私に伝えておきたかったのだと思いま
す。 先生がよく、カトリックの背後のスコラ神学の「統合」
を厳しく批判されていたことを思い出すます。哲学をも、他宗教を
も内に巻き込む「統合」です。それはキリストによって明確にこの
世のいっさいのものから切り離されて、ただ信仰によってのみとい
うプロテスタンティズムを危うくするものであるからです。同じ理
由で混合宗教に危険性を感じておられたのです。
前回伺ったときには、聖書信仰によって横浜海岸教会の当時の牧
師と袂を分かったことを話してくれました。今回はプロテスタント
の精神の核心に触れるもので、ただキリストによる信仰の精髄を貫
かれてきたその息づかいを感じます。その息づかいが伝わってきま
す。そしてそれを守るように言われているのが分かります。
先生の「ベーメ小論」を再度読みましたということから、ヘーゲ
ルの話になりました。先生の先生である伊藤吉之助先生が、ご自分
のヘーゲル理解の背後にある神の「啓示」を認めてくれたことをう
れしそうに話してくれました。それは伊藤吉之助先生が波多野精一
から学んでいるので、キリスト教のことを知っているからなのだろ
うと、最近それに気づいたと言われるのです。それほどヘーゲルに
神髄しているのですが、前回の時には、ヘーゲルはヘーゲルで、人
間の考えにすぎないと言われ、神のことばである聖書にはどんなこ
とがあっても及ばないことを言われ、忘れられないことになりまし
た。今回もそれに続いて、先生の信仰のあり場を再度知ることにな
りました。
隠れ家に帰るために失礼をしなければならなかったのですが、い
つも「上沼さん、祈って」と言うことで終わります。最後にしっか
りと「アーメン」と言われます。別れ際に差し出された先生の手
は、お年から考えたら信じられないほど、温かみのあるものでし
た。まさに信仰によって新たにされ、生かされている温かみです。
上沼昌雄記