「北大のキャンパスで」2015年8月10日(月)

今回日本での奉仕の合間を縫って二泊三日で秋田から札幌を訪ねました。北見からの友人ご夫妻とその知り合いの方とお会いするためでした。北国の解放感があるためか、何とも楽しい一時をいただきました。当然信頼感があって遠慮なしに話すことができたからです。その信頼感は神ご自身の真実さからきています。

札幌でもう一つの個人的な用事を果たすことができました。昨年11月3日の文化の日に北大のクラーク聖書研究会の50周年記念会でお会いした、クラーク会の現顧問で哲学科教授の千葉恵先生を研究室に訪ねることでした。クラーク像の一番近くの木造の古河講堂の中に研究室はありました。先生は外で待っていてくださいました。

昨年の記念会では「聖書と哲学」というテーマで勝手なことを話したのですが、実はそれは先生が取り組まれているテーマでもありました。記念会の食事会の時に熱心に話してくださり、その関係の論文もいただきました。それはパウロのローマ書の理解に関わることです。 ローマ書3章21節から31節までの先生の新しい理解を示しているものです。 今回日本に向かう前にもう一度読んで復習して臨みましたが、十分に理解しているかどうか自信のないままでお会いすることになりました。

またお訪ねした目的の一つは、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』をお渡しすることでした。ライトにはThe Interpreters Bibleでのローマ書の注解書があり、特に3章22節の「イエス・キリストの信」の属格を主格と取っていることに対して、千葉恵先生は帰属の属格と捉えていることの違いがあるからです。千葉恵先生はその前後の訳についてもご自身の見解を展開しておられます。そのことについて学術的な判断はできないのですが、何とも興味深いものです。

今回は、先生が取り組まれている「信の哲学」の全容に関わることで、今年書かれた『文学研究科紀要』の「信仰と理性」の抜刷をくださりました。さらにお訪ねしている間に出来上がった最新号の『紀要』の「序説 信の哲学――ギリシャ哲学者使徒パウロ(下)」をくださいました。200頁以上にわたるもので、そこにはローマ書7章の「われ」について論じられています。

その「われ」との関係で、闇についての本を書きましたとお伝えしましたら、いたく関心を示してくださいました。誰もが避けられないテーマとして抱えているという共有感をいただきました。その本をお持ちすれば良かったと思いました。先生のお父様は塚本虎二のお弟子さんであったということです。先生の中にも信仰の厚いものが脈々と流れています。

先生が話してくださったことに全面的についていくことができたわけではないのですが、語ってくださり、それを「信の哲学」としてまとめられようとされていることには、できるところでついていきたいと思わされました。そのご著書の完成のためにお祈りいたしますと言って失礼をいたしました。

北大のキャンパスで、しかも哲学科で、アリストテレスの研究の後というか、続きで使徒パウロの研究をされ、公共の機関誌でその研究成果を発表しておられるキリスト者がおられることに神の大きな計らいを感じました。

今カリフォルニアに戻ってきて、いただいた「ギリシャ哲学者使徒パウロ(下)」と格闘しています。それは全体の4章目になっていて「パウロの心魂論―心魂のボトムに何が生起するのか」となっています。ローマ書7章と8章の肉と霊のことが論じられています。公の機関誌でこのようなテーマが論じられていることにうれしくもあり、またどういう訳か責任も感じさせられています。N.T.ライトのローマ書理解を語るときに千葉恵先生のローマ書理解も紹介しているからです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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