両親の家にはアボカドの木が二本あります。昨年から実をならせていたのですが、今年不作で、自分たちで食べるだけで終わっています。その2本の木が、すでに初夏を迎えているカリフォルニアで葉を落とし始めているのです。もう役割が終わって、からだを楽にして休みますので、よろしくと言っているかのように、一気にではなく、少しずつ葉を落としています。週末にはその落ち葉拾いをしました。
まもなく日本での奉仕の旅が始まります。新緑の5月です。みずみずしい自然の潤いです。それが初夏に向かう自然の姿であると体に染み込んでいます。ここでも散歩に出ると、バラを初め多くの花が咲き乱れています。ハニーサックル(スイガラス)が甘い匂いをあちことの庭先で漂わせています。それぞれの神の作品に時があります。アボカドはしばらく休んで、もしかして不用な葉だけを落として、また新しい実をならせるために生き返るのかも知れません。それでもこの時期に落ち葉拾いをさせられるこの木は、何の木なのだろうかと考えてしまいます。
4月の終わりに桜の好きな秋田の友人がメールをくれました。 「今年の桜は、例年より少し送れる見込みです。気温が中々上がらないからです。桜が好まれるのは、何もないところに突然美しく咲き乱れ、あっという間に散ってしまうからだとある有名な日本研究者が言ってました。日本人の気質にあっているのかも知れません。T牧師も、精一杯主に仕え、終末論に関する著作などでも知られて、結構大きな教会を作り上げた方ですが、このかたは、悪性リンパ腫で50歳代で召されました。亡くなる少し前に後任の牧師を任命して、その後は、自分の面影を一切なくして(メッセージの録音などの殆どを処分して)パット消えた見事な最後であったことを思い出しました。」
晴れ上がった空の下で落ち葉拾いをしながら、友人のこの言葉を思い出しました。そうすると、新緑の5月に葉を落として見事に散っていく人生もあるのだと自分に言い聞かせていました。充分ではないが、家族が自分たちで食べられるだけのアボカドを実らせ、使命をそれなりに果たしたので、これで終わりですといっているかのようです。同時にアボカドの人生とは言えないのですが、その生き方を振り返ってみました。アボカドの実は一度なると、枝に付いている限り腐ることもなくそのまま収穫されるのを持っています。こちらの食べ頃に合わせて採ることができます。それでも永遠に枝に付いているのではなく、秋に実を実らせて春には終わりを迎えます。そして多分葉を落として、次の収穫のための準備に入るのでしょう。そのために不用なものをそり落としているかのようです。そしてよく見ると、新しい葉を枝の上に方にしっかりと付けています。
アボカドの実を二つに割って、大きな種を取り除いて、そのくぼみにしょう油を少し差して食べると、マグロの味を楽しめます。日本からの一世の方々から聞いて、結構試しています。アボカドは日本食にしっかりと入っていて、カリフォルニア・ロールとして楽しめます。イエスがアボカドを見たら、これも自分の関わった創造の作品の一つだと言ってくれそうです。
上沼昌雄記