Test: ウイークリー瞑想「いまさらニ ーチェ?」

> ウイークリー瞑想
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> 「いまさらニーチェ?」2014年1月23日(木)
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>  まさに、いまさらニーチェと言いたくなるところです。まして
> は、「神の死」とか「反キリスト」というような、キリスト教を
> 真っ向から否定するような過激な発言をしてわけですから、いまさ
> らニーチェを引き合いに出してくるところでもありません。しかし
> また、これほどキリスト教を直接に語っている哲学者もいません。
> ことあるごとにどこでもキリスト教を取り上げています。放ってお
> けないのです。
>
>  こちらも放っておくことができないので、いままでになくまとめ
> てニーチェを読んでいます。何と言っても、ニーチェを哲学者と呼
> んで良いのか分からなくなります。カントやヘーゲルですとその哲
> 学が体系的に書かれているので、大変なのですが、かじりついてい
> ると少し分かったような気になります。それに比べて、ニーチェは
> 文明批評をしているのか、歴史分析をしているのか、戯曲を書いて
> いるのか、詩的哲学書を書いているのか、ともかくどのようなカテ
> ゴリーも気にしないで思いつくまま書いています。それでいて何か
> しっかりとしたものが貫いています。
>
>  ともかく読んでいて、ニーチェはキリスト教が好きなのか、嫌い
> なのか、何とも言えなくなります。どうも、自分が生まれ育った西
> 洋のキリスト教が虚偽を纏っていることに耐えられないで怒ってい
> るかのようです。キリスト教が本来の人間の力をそいでいると見て
> います。何か粋として生きているべき信仰が、ギリシャ哲学と融合
> することで、哲学的・形而上学的な抽象概念の体系になっているこ
> とに耐えられないようです。というのは、「神」がその体系の中に
> 閉じ込められているからです。そのような「神」は死んだというの
> です。別の言い方では、本来の神のあり方を真剣に求めているのです。
>
>  そうなると、「反キリスト」は誰かと自問しているところで、
> ニーチェが臆することなく、それは神学者であるといっていること
> に、なるほどと、ニーチェが言いたいことがここにあるのかと納得
> します。ギリシャ哲学を取り入れて身構えてきた西洋のキリスト教
> 神学が、それで普遍性を身に着けたようでいて、キリストに反する
> ことになったと見ているのです。「誰が本当のクリスチャンなの
> か、それはただひとり、あの十字架にかけられた人」、とニーチェ
> はあっさりと言います。
>
>  それではニーチェは本来のキリスト教を求めていたのか、あるい
> は、そのようなものを信じていたのかとなると、これも明確ではあ
> りません。むしろ、ギリシャ哲学以前の世界に視点をあわせたいよ
> うです。すなわち、プラトンに始まるイデアの世界とキリスト教の
> 神の世界が混じり合う以前の世界を見ているようです。どうもプラ
> トニズムで西洋の堕落と、それに融合したキリスト教の堕落を見て
> いるようです。「キリスト教は民衆のためのプラトニズム」とまで
> 言うのです。
>
>  ともかくニーチェは、キリスト教を含めた西洋の文明全体を批判
> しながら、生きる力を模索していたところがあります。多分、キリ
> スト教の教義や教えがその力をそいでしまっていると見ているよう
> です。信仰に関わる教義や教えに人を閉じ込めてしまって駄目にし
> ていると見ています。嘘と虚偽と偽善、ニーチェを読んでいて、そ
> れはまさに多くの人がキリスト教に対して、クリスチャンに対し
> て、教会に対して持っている思いではないかと、はっとさせられます。
>
>  そのように見ると、西洋でニーチェがいまだにというより、いつ
> も取り上げられる理由が分かります。ホロコストを経験した西洋の
> 教会は文字通り死んでしまったのです。ニーチェが予告したとおり
> です。どのように再生させるか、まさに死活問題です。それはキリ
> スト教のことだけでなく、西洋の哲学そのものの死活問題です。
>
>  そのように見ると、「いまさらニーチェ」なのですが、「いまだ
> にニーチェ」でさえあります。またそのように見ると、ニーチェの
> 過激な発言も距離を置いて見ることができます。むしろとんでもな
> い問いをいただいていることになります。かなりの発想の転換をし
> ないとニーチェにはついて行けません。それでも、ついて行けると
> ころまでついて行くときなのでしょう。
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> 上沼昌雄記
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