「『伝道者 石川正之助伝』(非売品)を読む」2015年11月18日(水)

今回の日本で11月に入って再度札幌に伺うことになりました。11月1日(日)は札幌ドーム近くにある札幌希望の丘教会(竹本邦昭牧師)で礼拝奉仕をいたしました。11月2日(月)の午後は北海道聖書学院を会場に札幌N.T.ライト学び会を持ちました。11月3日(文化の日)には北見の友人を訪ねました。その帰りに旭川と深川の間の納内という町に住んでいる元ウイクリス宣教師の大鍔師ご夫妻を訪ねました。

昨年一緒に植えた八重桜が根付いているというので。大鍔師と自転車をこいで訪ねました。短い滞在でしたが結構な話題を話しました。その中で大鍔夫人が、お兄様の故石川弘司牧師が生前にまとめた資料が一周年記念に合わせて『伝道者 石川正之助伝』として家族によって出版され、その冊子を見せてくださいました。石川牧師の150年ほど前にすでに親族のなかに伝道者がいたことに気づいて集めたものが本になったというのです。

興味深いので泊めていただきながら読み通し、次の朝食で大鍔夫人にいくつか質問をして大筋を頭に入れることができました。石川牧師は秋田の湯沢が出身です。石川正之助もそうです。ですが信仰を持ってから伝道師として北海道に渡っています。そして東京での伝道活動をして最終的に召された地が札幌になっています。大鍔夫人がもう一冊親族から手に入れるからというので、本をいただいて家に戻って読み直してみていくつかのことに関心がそそがれました。

一つは石川牧師が伝道師であり牧師であった石川正之助の存在にどのように気づかれ、どのように資料を集めたのかということです。そのプロセスは読んでいただく以外にないのですが、石川牧師とは神学校で同級生でもあったので、ご自分の牧師としての活動を締めくくっていく中で、どのような思いで受け止めておられたのか、何とも身近に感じられます。

さらに、石川正之助が北海道に渡ったときは屯田兵の活躍の時代で最初に彼がしたことは湧別村の村長としてとりまとめ役であったと記されています。その功績が認められて勲7等を受けていました。しかも湧別は北見の隣です。その北見にはピアソン宣教師の活動が有名でその住居は現在ピアソン記念館として保存されていて、友人宅の近くで2回ほど訪ねたことがあります。石川正之助が湧別にいたころにはピアソン宣教師は旭川で活動をしていたようです。それでもどこかで交流があったのではと勝手に想像しています。何よりも当時はまだ北海道には鉄道もなく、本州から船でどこかの港に入って後は牛か馬を使って移動していたようです。

石川正之助はその後岩見沢、八雲と伝道しています。岩見沢の教会には石川牧師が2度訪問をしたことが記されています。八雲は函館の近くです。どのような移動手段を使っていたのかも知りたいところです。

石川正之助の妻のイヨのことも記されています。湯沢の商家の出身で石川牧師が訪ねたことが記されていますが、その家族ではイヨの存在はなかったことになっていたというのです。その商家は今でも湯沢にあるようです。湯沢は私も何度か伺ったことがあります。その湯沢で長く伝道をして今は隣の横手で伝道をしている斎藤和彦牧師は歴史に関心のある方でいつかこの本を持って伺いたいと思います。

石川正之助の三女が小樽で末松鳳平という人と結婚をして、後に南浦和に移り住んでいます。さらにこの人はのちには日産化学工業社長にもなったと記されています。友人で名古屋で末松牧師という人がいますので、さてどうなっているのかとも思わされます。

多少余談になりますが、友人の秋田大学医学部耳鼻咽喉科の石川和夫教授は横手の出身です。しかも石川牧師のお父さんと石川教授のお父さんは友達で、二人とも自分たちの長男がヤソにとられたことを嘆いていたということです。しかしこの本によると、石川牧師のお父さんは自分たちの家系にすでに牧師が出ているのを知っていて、石川牧師が献身するときにも黙認をしたようです。

石川牧師とは神学校卒業後はほとんど会うこともなかったのですが、今回その働きの最後に神の深い導きを覚えておられたことを知ることができました。石川正之助の子孫に信仰が継承されています。今度は石川牧師、そして大鍔宣教師の子孫にも信仰が継承されていきます。石川教授の子孫にも信仰が継承されていきます。秋田の湯沢、そして北海道は私自身のミニストリーとしてよく行ききするところです。信仰の先達がすでに労されていたことにただ敬意を覚えさせられます。何としても記しておきたかったのです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

「北大のキャンパスで」2015年8月10日(月)

今回日本での奉仕の合間を縫って二泊三日で秋田から札幌を訪ねました。北見からの友人ご夫妻とその知り合いの方とお会いするためでした。北国の解放感があるためか、何とも楽しい一時をいただきました。当然信頼感があって遠慮なしに話すことができたからです。その信頼感は神ご自身の真実さからきています。

札幌でもう一つの個人的な用事を果たすことができました。昨年11月3日の文化の日に北大のクラーク聖書研究会の50周年記念会でお会いした、クラーク会の現顧問で哲学科教授の千葉恵先生を研究室に訪ねることでした。クラーク像の一番近くの木造の古河講堂の中に研究室はありました。先生は外で待っていてくださいました。

昨年の記念会では「聖書と哲学」というテーマで勝手なことを話したのですが、実はそれは先生が取り組まれているテーマでもありました。記念会の食事会の時に熱心に話してくださり、その関係の論文もいただきました。それはパウロのローマ書の理解に関わることです。 ローマ書3章21節から31節までの先生の新しい理解を示しているものです。 今回日本に向かう前にもう一度読んで復習して臨みましたが、十分に理解しているかどうか自信のないままでお会いすることになりました。

またお訪ねした目的の一つは、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』をお渡しすることでした。ライトにはThe Interpreters Bibleでのローマ書の注解書があり、特に3章22節の「イエス・キリストの信」の属格を主格と取っていることに対して、千葉恵先生は帰属の属格と捉えていることの違いがあるからです。千葉恵先生はその前後の訳についてもご自身の見解を展開しておられます。そのことについて学術的な判断はできないのですが、何とも興味深いものです。

今回は、先生が取り組まれている「信の哲学」の全容に関わることで、今年書かれた『文学研究科紀要』の「信仰と理性」の抜刷をくださりました。さらにお訪ねしている間に出来上がった最新号の『紀要』の「序説 信の哲学――ギリシャ哲学者使徒パウロ(下)」をくださいました。200頁以上にわたるもので、そこにはローマ書7章の「われ」について論じられています。

その「われ」との関係で、闇についての本を書きましたとお伝えしましたら、いたく関心を示してくださいました。誰もが避けられないテーマとして抱えているという共有感をいただきました。その本をお持ちすれば良かったと思いました。先生のお父様は塚本虎二のお弟子さんであったということです。先生の中にも信仰の厚いものが脈々と流れています。

先生が話してくださったことに全面的についていくことができたわけではないのですが、語ってくださり、それを「信の哲学」としてまとめられようとされていることには、できるところでついていきたいと思わされました。そのご著書の完成のためにお祈りいたしますと言って失礼をいたしました。

北大のキャンパスで、しかも哲学科で、アリストテレスの研究の後というか、続きで使徒パウロの研究をされ、公共の機関誌でその研究成果を発表しておられるキリスト者がおられることに神の大きな計らいを感じました。

今カリフォルニアに戻ってきて、いただいた「ギリシャ哲学者使徒パウロ(下)」と格闘しています。それは全体の4章目になっていて「パウロの心魂論―心魂のボトムに何が生起するのか」となっています。ローマ書7章と8章の肉と霊のことが論じられています。公の機関誌でこのようなテーマが論じられていることにうれしくもあり、またどういう訳か責任も感じさせられています。N.T.ライトのローマ書理解を語るときに千葉恵先生のローマ書理解も紹介しているからです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

Test: ウイークリー瞑想「いまさらニ ーチェ?」

> ウイークリー瞑想
>
> 「いまさらニーチェ?」2014年1月23日(木)
>
>  まさに、いまさらニーチェと言いたくなるところです。まして
> は、「神の死」とか「反キリスト」というような、キリスト教を
> 真っ向から否定するような過激な発言をしてわけですから、いまさ
> らニーチェを引き合いに出してくるところでもありません。しかし
> また、これほどキリスト教を直接に語っている哲学者もいません。
> ことあるごとにどこでもキリスト教を取り上げています。放ってお
> けないのです。
>
>  こちらも放っておくことができないので、いままでになくまとめ
> てニーチェを読んでいます。何と言っても、ニーチェを哲学者と呼
> んで良いのか分からなくなります。カントやヘーゲルですとその哲
> 学が体系的に書かれているので、大変なのですが、かじりついてい
> ると少し分かったような気になります。それに比べて、ニーチェは
> 文明批評をしているのか、歴史分析をしているのか、戯曲を書いて
> いるのか、詩的哲学書を書いているのか、ともかくどのようなカテ
> ゴリーも気にしないで思いつくまま書いています。それでいて何か
> しっかりとしたものが貫いています。
>
>  ともかく読んでいて、ニーチェはキリスト教が好きなのか、嫌い
> なのか、何とも言えなくなります。どうも、自分が生まれ育った西
> 洋のキリスト教が虚偽を纏っていることに耐えられないで怒ってい
> るかのようです。キリスト教が本来の人間の力をそいでいると見て
> います。何か粋として生きているべき信仰が、ギリシャ哲学と融合
> することで、哲学的・形而上学的な抽象概念の体系になっているこ
> とに耐えられないようです。というのは、「神」がその体系の中に
> 閉じ込められているからです。そのような「神」は死んだというの
> です。別の言い方では、本来の神のあり方を真剣に求めているのです。
>
>  そうなると、「反キリスト」は誰かと自問しているところで、
> ニーチェが臆することなく、それは神学者であるといっていること
> に、なるほどと、ニーチェが言いたいことがここにあるのかと納得
> します。ギリシャ哲学を取り入れて身構えてきた西洋のキリスト教
> 神学が、それで普遍性を身に着けたようでいて、キリストに反する
> ことになったと見ているのです。「誰が本当のクリスチャンなの
> か、それはただひとり、あの十字架にかけられた人」、とニーチェ
> はあっさりと言います。
>
>  それではニーチェは本来のキリスト教を求めていたのか、あるい
> は、そのようなものを信じていたのかとなると、これも明確ではあ
> りません。むしろ、ギリシャ哲学以前の世界に視点をあわせたいよ
> うです。すなわち、プラトンに始まるイデアの世界とキリスト教の
> 神の世界が混じり合う以前の世界を見ているようです。どうもプラ
> トニズムで西洋の堕落と、それに融合したキリスト教の堕落を見て
> いるようです。「キリスト教は民衆のためのプラトニズム」とまで
> 言うのです。
>
>  ともかくニーチェは、キリスト教を含めた西洋の文明全体を批判
> しながら、生きる力を模索していたところがあります。多分、キリ
> スト教の教義や教えがその力をそいでしまっていると見ているよう
> です。信仰に関わる教義や教えに人を閉じ込めてしまって駄目にし
> ていると見ています。嘘と虚偽と偽善、ニーチェを読んでいて、そ
> れはまさに多くの人がキリスト教に対して、クリスチャンに対し
> て、教会に対して持っている思いではないかと、はっとさせられます。
>
>  そのように見ると、西洋でニーチェがいまだにというより、いつ
> も取り上げられる理由が分かります。ホロコストを経験した西洋の
> 教会は文字通り死んでしまったのです。ニーチェが予告したとおり
> です。どのように再生させるか、まさに死活問題です。それはキリ
> スト教のことだけでなく、西洋の哲学そのものの死活問題です。
>
>  そのように見ると、「いまさらニーチェ」なのですが、「いまだ
> にニーチェ」でさえあります。またそのように見ると、ニーチェの
> 過激な発言も距離を置いて見ることができます。むしろとんでもな
> い問いをいただいていることになります。かなりの発想の転換をし
> ないとニーチェにはついて行けません。それでも、ついて行けると
> ころまでついて行くときなのでしょう。
>
> 上沼昌雄記
>
>
>
>

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Hashimoto

「山の教会は今」2013年11月18日(月)

 昨日、山の教会の礼拝に2ヶ月ぶりで出席いたしました。私 
たちが出たり入ったりしているのには教会の人は慣れているので、 
日本はどうでしたかとか、両親は如何ですかということで、挨拶が 
終わってしまえばいつもの慣れ親しんだ教会になります。その辺の 
感じは変わらないのですが、昨日は2ヶ月の間に知らない人が 
さらに20名ほど礼拝に出席されていて、こちらの方が驚かさ 
れました。すでに教会に親しんでいるようで、私たちのことも初め 
ての人として受け入れてくれていたようです。

 カリフォルニアに移り住んでからすでに24年になります 
が、ずっとこの教会に集っています。川を越えたこちら側に家を建 
てて移り住んでも、40分ほどドライブをして通い続けていま 
す。ある時期、結構長い間でしたが、何度も牧師が来て去っていく 
ことが続きました。その都度、教会が、信徒が悪いという言い訳を 
して去っていきました。フォレストヒルという小さな街では評判の 
悪い教会になっていました。

 今の牧師は教会の97歳の黒人のお婆さんの孫にあたる方で 
す。サンフランシスコ近くから毎週通ってきて2年、そして今 
年の初めにフォレストヒルに移り住んできました。メッセージは一 
週間まるまるかけて祈り準備していることが分かります。旧約聖書 
からの引用も必ずあります。長髪を何本にも編んで後ろに束ねてい 
るのですが、説教に熱が入ってくるとその長髪が前に飛び出てくる 
のでその度に後ろに押し返さなければなりません。ネクタイ無し 
で、長袖のポロシャツですが、神と聖書に対する敬虔な思いを損な 
うことはありません。むしろ好感を持たれてきています。

 この3年の間に、普通では届かない人たちが教会に集うよう 
になりました。社会でも置き忘れたというか、ついて行けないで、 
裏側でじっと生活をしているような人たちが少しずつ来るようにな 
りました。機能不全の家族、ホームレス、薬物使用者、失業者と、 
どちらかというとそれなりに安定した生活をしている人たちが今ま 
で教会の中心になっていて、その外側で教会からも忘れられてし 
まっている人たちです。教会のひとりの姉妹がボランティアで教会 
の一室を古物の衣料を提供する活動も始めています。フォレストヒ 
ルの街での支援活動にも、缶詰や生活必需品を毎月集めて、教会全 
体としても活発に関わっています。フォレストヒルの人たちも注目 
するようになりました。

 昨日は感謝祭の持ち寄りの食事会でした。階下いっぱいに用意し 
たテーブルも足りないほどでした。食べ物は充分にありました。何 
人かホームレスの人がいると言うことです。どのような人がいても 
違和感のない、それが主の食卓であるかのような雰囲気です。牧師 
は全身全力で説教をしているので、礼拝の後の食事はいっさい手を 
出さないで体調を管理しています。その代わりに新しい来会者と会 
話の時を持っています。

 教会のボランティア活動を聞きつけて、昨日はサクラメントから 
トラックいっぱいに食料と衣類を持ってきてくれた方がいます。食 
事の後にそれらを一室に移す作業を皆が当然のようにしていまし 
た。礼拝前まで駐車所で煙を吸っていた人も、礼拝では静かに耳を 
傾けています。何かが始まればうれしそうに活動を始めます。義樹 
の中学の同窓生も今失業者として加わっています。ルイーズがその 
ような人たちをみて、2ヶ月前よりみな健康そうになっている 
というコメントをして、言われてみたら皆明るくなっています。

 みなしご、やもめ、在留異国人が困ることがないようにという、 
モーセを通しての神の律法の要求がキリストの愛のゆえに少しでも 
教会で満たされてきているようです。それなりに生活ができている 
人たち、あるいはもう少しその上の人たちで、多くの場合教会が動 
いているのが現実です。そのようなところではまたそれぞれのエゴ 
が出てきて、分裂騒ぎまで起こします。そんなエゴを打ち砕かれた 
人たちが教会に集うようになって、不思議に教会の本来あるべきと 
ころに戻っているのかも知れません。

 しかし、そのために教会があるわけでもありません。牧師が神と 
聖書に忠実に敬虔に従い、その思い巡らしの中から語るメッセージ 
が徐々に私たちの自己中心を打ち砕いて、他者への思いを増し加え 
てくれています。礼拝は心が気持ちよくなるためではないのです。 
キリストが自らを捨てて父なる神のみこころに従われたように、私 
たちも自分を捨ててキリストに従うことを確認して実行するところ 
です。社会・福祉活動はその延長で出てきているのです。それが目 
的ではないのです。それゆえに、その活動にも自由があります。御 
霊にある自由です。

 今週末はまた両親のことと、来週の感謝祭のことがあってまた出 
かけます。山の教会には出たり入ったりが続きます。帰ってくる度 
に、丸一週間準備をして全身全霊を込めて語る牧師の説教とそれが 
静かに浸透していく様子をうかがうことができます。

上沼昌雄記

「水晶の夜」2013年11月11日(月)

 昨晩10時のテレビニュースを観ていたときに、75年前の 
1938年11月9日の夜から10日にかけてのドイツで 
のユダヤ人に対する暴動からアメリカに逃れた人のことが取り上げ 
られていました。「水晶の夜事件」と呼ばれるもので、破壊された 
ショウウインドーやシナゴーグのガラスの山が水晶のように輝いて 
いたという、とんでもない侮辱を込めて言われたことです。実際に 
はナチの官憲による事件で、それを契機にドイツはホロコストに突 
き進んでいったのです。

 75年前のこの事件がアメリカで取り上げられて、日曜の夜 
のテレビに出てきたことに、良くもしっかりと取り上げたものだと 
驚きました。日本のメディアで取り上げられているのか興味があっ 
てネットで調べてみたら、時事通信が取り上げているようです。ド 
イツではその記念館に大統領が記帳に訪ねていると言うことで 
す。75年前ですので、第二次世界大戦の前に起こったことです。

 この「水晶の夜・クリスタルナハト」という言葉を、10月 
の半ばに、札幌郊外の江別市に退いているマラーノ研究家の小岸昭 
氏を訪ねたときにも聞いたことを思い出します。1492年にス 
ペインとポルトガルからカトリックによって追放されることになっ 
たユダヤ人で、表面上カトリックに改宗した人をマラーノ・豚と呼 
んだのです。そのマラーノたちの行く末を追跡しながら訪ねた研究 
書を通して小岸氏の業績を知ることになり、機会をいただいてお話 
を聞くことができました。

 マラーノたちの行く末とは、追放されて離散して、地理的に広範 
囲に広がっているだけではなく、時間的にも数百年という単位で 
後々に影響している痕跡です。それは隠れた歴史の爪痕のようなも 
ので、表面には出て来ないことです。それを根気よく訪ねていく小 
岸氏の研究書は、歴史の裏側に引き込まれるものです。そんな苦労 
話を伺っているときに「水晶の夜」のことが出てきました。それが 
耳に残っていたのですが、公には聞くこともないのだろうと思って 
いたので、昨晩のニュースには驚かされました。

 キリスト教の正統派という中にいても、というのが正確なのか、 
逆にそれゆえに、というのが適切なのか、マラーのことを聞いたこ 
ともなく、ましてはキリスト教が抱えている反ユダヤ主義について 
も聞くこともありませんでした。それは隠され、隠れているので 
す。それがユダヤ人哲学者であるレヴィナスの著作を読み、マラー 
ノの現実を知ることになって、2千年の西洋のキリスト教が初 
めから抱えていることであり、ホロコストとして西洋のキリスト教 
世界で起こったことを知ることになったのです。「水晶の夜事件」 
はその流れの中で起こったことです。すなわち、西洋の伝統的な聖 
書理解に支えられた文明の中で起こったことです。

 このことを真剣に取り上げて、西洋の土壌で聖書を捉え直してい 
るイギリスの聖書学者がいます。今回の日本でもその研究会として 
2回目のN.T.ライトセミナーを持ちました。N.T.ライト 
を真剣に取り上げている人が日本でも増えています。折しも新しい 
学術書が11月の始めに発刊されました。Paul and the 
Faithfulness of Godというタイトルで、1660頁にわたる大著 
です。N.T.ライトのパウロ研究の集大成のようです。

 この大著をどのように読んだらよいのか悩むのですが、幸いにそ 
の序論で全体の流れを説明してくれて、最初の章と最後の章が対応 
していることが分かり、多少ずるいやり方なのですが、1章を 
読み終えて、最後の16章を読んでいます。結論に当たるこの 
最後の章の初めに、2千年にわたるキリスト教の反ユダヤ主義 
の起源と、それに基づいた西洋の伝統的な聖書理解に言及していま 
す。このことはここで初めて取り上げられているのではなく、多く 
の著書で繰り返し取り上げられています。西洋の正統的な伝統的な 
聖書理解に潜んでいる反ユダヤ主義です。

 N.T.ライトがこのことに結構神経を使っていることが分か 
ります。むしろ死活問題として取り上げているのかも知れません。 
そしてそれゆえに、パウロ神学のためにこれほどまでに厳密で誠実 
な聖書解釈を試みていると言えます。その意味では、N.T.ラ 
イトは聖書学者であり、同時に歴史学者でもあります。初代教会か 
ら始まる聖書理解が歴史に及ぼした痕跡をしっかりと見定めていま 
す。それゆえに、歴史から浮き上がった聖書理解ではなく、歴史に 
方向を定めていく聖書理解を見据え、全力を注いでいます。なすべ 
き責任がまだあることを教えてくれます。

上沼昌雄記

「アウグスティヌスの誘惑」2013年11月6日(水)

 今回の日本の奉仕で不思議な導きをいただいて、札幌の一つの聖 
書学院で「聖書と哲学」と言うことで2日にわたって4 
時間の授業を持つことができました。このテーマは、全く個人的な 
興味というか課題として長年取りかかってきたことです。それをま 
とめて話す機会をいただいたのは、不思議な導きであり、さらに不 
思議な体験となりました。というのは、長年取りかかってきたので 
すが、同時に避けていたからです。それが、避けることのできない 
テーマとして降りかかってきたのです。

 一つの想定というか、仮説として、聖書と哲学の方向性というか 
志向性のようなものを考えてみました。というのは、聖書では信じ 
るというのは自分を捨ててキリストに従うこと、それはまた一粒の 
麦として地に落ちたキリストの生き方にならうことのように思うの 
ですが、哲学はその逆で、自分の世界というか、観て観察している 
自分を中心に世界のあり方を極めていくことで、それが理性であ 
り、意志であれ、感情であれ、結局は自己中心の世界を確立するこ 
とにあるからです。聖書では自分から出ていくことが説かれている 
のですが、哲学では自分を堅く固持して、世界を自分のうちに取り 
込んで、自分の世界を確立することに視点が置かれています。

 この仮説に立って考えてみると、現状のキリスト教が思いの外と 
いうか、もっともと言えるのか、かなり自己中心的な信仰形態に 
なっていると言えます。信じたらすべてがうまく行くという信仰、 
自分の平安のために聖書も神も使ってしまうような信仰、どうした 
ら幸せなクリスチャン生活が送れるのかという信仰、幸せな結婚、 
幸せなクリスチャンホームの形成という信仰、それらは、結局はど 
こかで自分中心の信仰理解と聖書理解に陥っています。その源が、 
キリスト教がギリシャ哲学と融合する中で自然にというか、当然の 
ように身に着けてきたことにあると言えます。

 このことで意外に、あのアウグスティヌスが決定的な方向を示し 
てきたとことがあります。アウグスティヌスといえば、西洋キリス 
ト教の父と言われ、私たちも彼の『告白』や『三位一体論』や『神 
の国』を自分たちの信仰理解と同じように受け止めています。札幌 
の講義でも話したのですが、アウグスティヌスの凄さは、信仰の世 
界を語っていながら、哲学の歴史では避けることができないほど重 
要な役割をしていて、必ず西洋哲学史で登場していることです。た 
とえばルターは教会史では重要ですが、西洋哲学史ではアウグス 
ティヌスのようには取り上げられません。

 何がそれほどまでにアウグスティヌスをして、哲学の世界にまで 
影響しているだけでなく、哲学との関わりがキリスト教そのものに 
まで深く関わってくるのでしょうか。それはあの『告白』の冒頭の 
言葉に見いだされます。「あなたは私たちをご自身にむけておつく 
りになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩うま 
で、安らぎを得ることができないのです。」すなわち、神に向かっ 
ていながら、その神を自分の心のうちに探求していく姿勢です。自 
分の心の安らぎが神探求の中心に置かれていることです。自分の心 
を見つめることが信仰の方向となっているのです。神第一のようで 
ありながら、結局は自分第一なのです。自分の心がどうであれ、と 
はならないのです。

 アウグスティヌスが『真の宗教』で言っていることで、その方向 
性がより明確になっています。「外に出てゆかず、きみ自身のうち 
に帰れ。真理は人間の内部に宿っている。」自分の内面で神を見い 
だすのだというのです。その神は当然外にいるのですが、それは自 
分の内面を通過した向こうに見いだされるのです。その意味では自 
分の内面の反映とも言えます。このことはアウグスティヌスの時間 
の理解にも、三位一体の理解にも当てはまります。過去も未来も現 
在の心の記憶であり、期待です。また精神の三一性、すなわち、記 
憶と知解と意志の三一性の類似の上に神の三一性を捉えています。 
神から私たちではなく、私たちから神なのです。

 確かに邦訳で500頁近い『三位一体論』で西洋での三位一体 
の理解は確立されたところがあります。その功績は多大です。また 
そのように捉えていく誘惑も大です。ただ同時に、心の内面を見つ 
めることで精神のあり方の類似性から引き出していったことで、聖 
書の神は哲学者の神にもなったのです。それを肯定的に捉えるの 
か、否定的に捉えるのか、 もしキリスト教があまりにも自己 
実現ためのものに成り下がっているとしたら、考え直していかなけ 
ればならないところです。

 心が満たされる、心に安らぎを得る、そのために心を見つめる、 
ということがキリスト信仰の目標になっています。それはまさに聖 
書からではなくて、ギリシャ哲学の影響によると言えます。その方 
向を決定づけたのがアウグスティヌスと観るのは言い過ぎではない 
のでしょう。アウグスティヌスの誘惑は、あたかも「賢くする」と 
思われたあの木の実のようなのかも知れません。

上沼昌雄記

「のたれ死に」2013年10月8日(火)

 まったく不思議なことに、過ぎる土曜日に六本木のフランシスコ 
会の本部に伺うことになりました。フランシスコの霊性を探求して 
いる牧師に付いていったのです。そこの神父さんと学び会をしてい 
るというのです。といってもこちらもフランシスコ会の本部でフラ 
ンシスコ会の神父さんにお会いできるのであれば、聞いてみたいと 
思うことがあったからです。

 1639年頃に最上川の山の中に隠れていたキリシタン宣教師 
が、どうも朝日岳を通って、酒田に抜け、日本海を辿って蝦夷の地 
に入り、樺太に渡り、シベリヤを経由して本国に帰ったという話が 
あって、それに動かされて、できるところで調べてきました。その 
宣教師がフランシスコ会であることが分かりました。確かに逃げた 
ことは分かったのですが、その話のようにシベリヤを経由して本国 
に帰ったのかどうなのか、この際本部に伺って神父さんに聞けば何 
か分かるかなという思いがあったのです。

 その最上川沿いには確かに隠れキリシタンがいました。その跡地 
もあります。それだけでなくそこにある称名寺というお寺にはラテ 
ン語のイニシャル INRI 、すなわち「ナザレ人イエス、ユダ 
ヤの王」が記された十字架が掲げられています。そのお寺の案内に 
はその十字架が表表紙に載っています。それを神父さんにお見せし 
ましたら、えぇ、驚いていました。

 簡単に経緯を説明しましたら、ちょっと待ってくださいといっ 
て、ご自分の書籍からご自分が訳された『16-17世紀 
の日本のフランシスコ会士たち』をいう本を持ってきて、記念にと 
言って一冊くださったのです。ぱらぱらめくって、ここに書いてい 
るフランシスコ・アンドレレスという宣教師がそれに当てはまりま 
すというところまでお話しできました。そして確かにこの本でも、 
この宣教師の没年と死亡場所は不詳になっています。

 もしその話しのように本国に帰っているなら、確かな問い合わせ 
は当然あるだろうということです。それはフランシスコ会にとって 
も栄誉なことだからです。実際に聞いたこともないという返事で 
す。それだけでなく、当時の食糧事情を考えても逃げ切ることは難 
しくて、「どこかでのたれ死にしたのだろう」とあっさりと言うのです。

 それを聞いて、400年近く前の自分たちの先輩の殉教の最後 
を「のたれ死に」とはないだろうと思いました。同情しているふり 
もないのです。それが当たり前のように言うのです。どうなったの 
かねと、調べてくれても良さそうにとも思いました。プロテスタン 
トの私が関心を持っていて、本元の神父さんがあっさりと「どこか 
でのたれ死にしたのだろう」と言われて、それはないだろうと変な 
同情心が湧いてきました。

 それでも何か、当たり前のようにいうこの神父さんもご自分がど 
こかで「のたれ死に」しても良いと思っているのだろうと思うよう 
になりました。それがキリストに従う者の生き方として受け止めて 
いるので、自分たちの先輩たちが本国から遠い日本の地に来て、誰 
にも認められないで、のたれ死にしたままで人生を終えることをよ 
しとしているのだろうと思えてきました。それで良いんだよと言っ 
ている感じです。

 連れて行ってくれた牧師の教会で次の日に礼拝メッセージをする 
ことになって、例のイエスのエルサレム入場の際に登場してきたギ 
リシャ人と、それへの応えのような「一粒の麦」のところから、も 
しかしたらそれこそ「のたれ死に」することもあり得るのが一粒の 
麦としての生き方ではないかと、前日のやり取りを紹介しながら話 
しました。実際に一粒の麦が死んだことで、その最上川のところに 
は戦前から戦後、ホーリネスの教会が大きな働きをしています。神 
は何百年後にその実を実らせるのです。

 一粒の麦として「地に落ちる」ことがあるとしたら、それは誰に 
も知られないで「のたれ死に」することであり、自分にもある得る 
ことなのだろうと、あっさりと、当たり前のように言えたらば良い 
のだろうと、ためらいながら自分に言い聞かせています。

上沼昌雄記

「ギリシャ人とイエス」2013年10月3日(木)

 イエスのエルサレム入場に際して興味深い記述があります。ヨハ 
ネ福音書の12章で、イエスのエルサレム入場に合わせるよう 
にギリシャ人が登場するのです。「礼拝のために上ってきた人々の 
中に、ギリシャ人が幾人かいた」(20節)と、あたかもあえ 
て記しているかのような書き方です。どこから上ってきたかは記さ 
れていません。礼拝のためとありますからすでに信仰を持ったギリ 
シャ人なのでしょうか。あるいはユダヤ教に改宗したギリシャ人な 
のでしょうか。

 今まであまり注意を払ってこなかったのですが、あの地中海周辺 
ではすでにユダヤ人とギリシャ人との交流というか関係は、想像す 
るよりはるかに浸透していたようです。すでに旧約聖書は70 
人訳としてギリシャ語に訳されていました。当然なのですが新約聖 
書はギリシャ語で書かれたのです。エルサレムでもギリシャ文化は 
かなり影響していたようです。ですからギリシャ人で信仰を持った 
人が礼拝に上ってきても問題はないのですが、このようにあえて記 
していることに何かの意味があるのでは考えてしまいます。

 というのは話が続いているからです。その人たちがピリポを通し 
てイエスに面会を求めるのです。ピリポはアンデレに話し、ふたり 
がイエスに話を伝えているのです。何かそこに思惑めいたもの、あ 
るいはためらいのようなものがありそうに思うのはうがった見方な 
のでしょうか。何としてもイエスに面会したいと思っているギリ 
シャ人、それをどうしたものかと考えている弟子たち、ヨハネはど 
うしてこのようなことを記しているのでしょうか。

 それを聞いたイエスが、ギリシャ人に会うとも会わないと何も言 
わないで、「人の子が栄光を受けるときが来ました」と、弟子たち 
に言い出しています。ギリシャ人の訪問があたかも、イエスの中に 
ご自分の時を知る契機になったかのような言い方です。何かがイエ 
スを動かしたのだと思います。そして次に言われた一粒の麦のたと 
えはまさに何かを意味しているようです。

 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままで 
す。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛 
する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って 
永遠のいのちに至るのです。」(24,25節)イエスに 
従う者が取るべき生き方を語っています。あたかもギリシャ人にそ 
れを示すべきだと言っているかのようです。ギリシャ人とイエスに 
従う者との決定的な違いであると言いたいかのようです。

 エズラの神殿再建とネヘミヤの城壁再建の間にギリシャ哲学の祖 
といえるソクラテスが生まれています。すなわち旧約聖書が書物と 
して完結していく時にギリシャ哲学が栄えていくのです。プラトン 
もそのイデア論をユダヤ人の唯一神と創造神から得たとも言われま 
す。パウロの時にエピキュロス派とストア派の哲学が支配的でし 
た。キリスト教は避けられないかたちでギリシャ哲学と交流してい 
きます。飲み込んだのか、飲み込まれたのか、何とも微妙なところです。

 それでも一つ分かることがあります。ソクラテスは、「汝自らを 
知れ」と、それが哲学の目標のように言います。ギリシャ哲学を始 
めとして、西洋の哲学は、どこかで、そして確実に「自ら」が中心 
に世界が展開していきます。「自ら」を視点に世界を見て、その世 
界を自分に納得いくように説明していくところがあります。自己中 
心と言えるし、存在の我執とも言えます。「自ら」を決して捨てな 
いで、むしろ確立していく世界です。確立することで安心感を手に 
入れるのです。まさにそのために努力をするのです。西洋文明の基 
本的な姿勢です。

 イエスがギリシャ人の来訪を聞いて言い出した一粒の麦のたとえ 
は、そんな自己確立の世界観に対して真っ向から反対の自己否定の 
生き方を語っています。そしてそれを示すために自分の時が来たと 
言っているようです。何かそんな緊張感がこの場面で漂っています。

 振り返ってみるに、そんな緊張感は薄れて、キリスト教がどこか 
でそんなギリシャ哲学の世界観に飲み込まれて、自己確立のための 
信仰に成り下がってしまっているのではないかと思うのは、杞憂な 
のでしょうか。

上沼昌雄記

「大村先生を勉強しています」2013年10月1日(火)

 過ぎる9月26日(木)に大村晴雄先生を宇 
都宮の施設に、いつものように石神牧師、小泉氏とともにお訪ねし 
ました。どのような質問が先生から出てくるのか3人ともびく 
びくしながら部屋に入りました。丁度施設の拡張工事中でコンク 
リートの突貫工事のすごい音が部屋のすぐ外で聞こえてきて、先生 
と話ができるのか心配になりました。

 先生は満で103歳です。今までの会話では数えを使ってこら 
れたようなのでそのまま104歳としますが、信じられないほど 
顔つやも良く、すでに私たちを持っていてくださったようです。先 
生の耳元でしっかりと話をするとどうにか通じるようです。また先 
生の口元に耳を付けると先生の声を聞き取ることができます。どう 
も先生には工事の騒音は聞こえていないようです。私たちの方も集 
中すると何とか会話ができます。

 石神牧師が執り行う聖餐式の式文にはじっと耳を傾けているよう 
です。アーメンに、しっかりとアーメンと応えています。渡された 
パンとぶどう液には、堅く手を握って何度もアーメン、アーメンと 
感謝を持って応えていました。ただキリストの割かれた肉と流され 
た血のゆえに神を知ることの絶大な恵にしたっているようです。あ 
たかもルターがいう十字架の神学のその際だった信仰のゆえに知る 
ことができる神の恵みのなかに先生がいるようです。その姿を覗っ 
ているだけでこちらも感動が湧き上がってきます。

 先生がいつものようにひとりひとりを呼んでくださって、近状を 
尋ねてくださいました。私に日本でどこに行くのかと尋ねてくださ 
り、札幌、秋田、山形、名古屋、大阪というと、指を折って一つ一 
つ確認されていました。今回はまわりの騒音はすごいのですが、前 
回より聞こえているようで、集中すると会話が続きます。

 それで思い切って、先生に質問があります、聞いてみました。 
何?、と返事をされました。例の先生の「ルターの『ハイデルベル 
グ論題』について」には続きがあるのでしょうかと尋ねました。そ 
うしましたら、ない、とあっさり答えられました。そんなにあっさ 
りと言われたのであっけにとられていたのですが、後のお二人もそ 
の即答の妙味に驚いていたようです。

 実は、先生のこの論文はそれとして完結しているのですが、最後 
にタウラーとルターのドイツ神秘思想について言及していて、その 
ことについては別途論じる必要があると書いてあるので、そのこと 
を知りたかったのです。どこかでそのテーマについて先生が話され 
たのを聞いた記憶があります。ヘーゲルの専門家でありながら、ヤ 
コブ・ベーメの神秘思想を大切に取り上げているので、そのドイツ 
神秘思想について先生はルターのなかにもあることを見逃していな 
いのです。むしろ大切な要素として取り上げているのです。ドイツ 
観念論とドイツ神秘思想をコインの両側のようにみているのです。

 ともかくこの夏は大村先生の書物を結構読みました。 再来 
週に札幌の郊外の聖書学院で「聖書と哲学」というテーマで教える 
ことになっているので、手元にある先生の書かれたものを確認した 
のです。 先生のなかには聖書と哲学を厳密に切り離すものが 
あります。それで失礼にならないように、今大村先生を勉強してい 
ますとお伝えしました。ほほえんでくれました。 それは無理 
だといわれているのか、是非やりなさいと言ってくださっているの 
か、分からないのですが、この機に及んで哲学者としての大村先生 
の信仰のあり場を知りたくなったのです。

 それは多分、聖餐式でのあの先生の感謝の念に表されているのだ 
と思います。それ自体が何ともインパクトのあることです。同時に 
哲学の世界と信仰の世界の峻別のその境目について知りたく思いま 
す。先生のほほえみは、あたかもそれは自分で格闘して見いだしな 
さいと言っているかのようです。

上沼昌雄記

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