今回の日本で11月に入って再度札幌に伺うことになりました。11月1日(日)は札幌ドーム近くにある札幌希望の丘教会(竹本邦昭牧師)で礼拝奉仕をいたしました。11月2日(月)の午後は北海道聖書学院を会場に札幌N.T.ライト学び会を持ちました。11月3日(文化の日)には北見の友人を訪ねました。その帰りに旭川と深川の間の納内という町に住んでいる元ウイクリス宣教師の大鍔師ご夫妻を訪ねました。
昨年一緒に植えた八重桜が根付いているというので。大鍔師と自転車をこいで訪ねました。短い滞在でしたが結構な話題を話しました。その中で大鍔夫人が、お兄様の故石川弘司牧師が生前にまとめた資料が一周年記念に合わせて『伝道者 石川正之助伝』として家族によって出版され、その冊子を見せてくださいました。石川牧師の150年ほど前にすでに親族のなかに伝道者がいたことに気づいて集めたものが本になったというのです。
興味深いので泊めていただきながら読み通し、次の朝食で大鍔夫人にいくつか質問をして大筋を頭に入れることができました。石川牧師は秋田の湯沢が出身です。石川正之助もそうです。ですが信仰を持ってから伝道師として北海道に渡っています。そして東京での伝道活動をして最終的に召された地が札幌になっています。大鍔夫人がもう一冊親族から手に入れるからというので、本をいただいて家に戻って読み直してみていくつかのことに関心がそそがれました。
一つは石川牧師が伝道師であり牧師であった石川正之助の存在にどのように気づかれ、どのように資料を集めたのかということです。そのプロセスは読んでいただく以外にないのですが、石川牧師とは神学校で同級生でもあったので、ご自分の牧師としての活動を締めくくっていく中で、どのような思いで受け止めておられたのか、何とも身近に感じられます。
さらに、石川正之助が北海道に渡ったときは屯田兵の活躍の時代で最初に彼がしたことは湧別村の村長としてとりまとめ役であったと記されています。その功績が認められて勲7等を受けていました。しかも湧別は北見の隣です。その北見にはピアソン宣教師の活動が有名でその住居は現在ピアソン記念館として保存されていて、友人宅の近くで2回ほど訪ねたことがあります。石川正之助が湧別にいたころにはピアソン宣教師は旭川で活動をしていたようです。それでもどこかで交流があったのではと勝手に想像しています。何よりも当時はまだ北海道には鉄道もなく、本州から船でどこかの港に入って後は牛か馬を使って移動していたようです。
石川正之助はその後岩見沢、八雲と伝道しています。岩見沢の教会には石川牧師が2度訪問をしたことが記されています。八雲は函館の近くです。どのような移動手段を使っていたのかも知りたいところです。
石川正之助の妻のイヨのことも記されています。湯沢の商家の出身で石川牧師が訪ねたことが記されていますが、その家族ではイヨの存在はなかったことになっていたというのです。その商家は今でも湯沢にあるようです。湯沢は私も何度か伺ったことがあります。その湯沢で長く伝道をして今は隣の横手で伝道をしている斎藤和彦牧師は歴史に関心のある方でいつかこの本を持って伺いたいと思います。
石川正之助の三女が小樽で末松鳳平という人と結婚をして、後に南浦和に移り住んでいます。さらにこの人はのちには日産化学工業社長にもなったと記されています。友人で名古屋で末松牧師という人がいますので、さてどうなっているのかとも思わされます。
多少余談になりますが、友人の秋田大学医学部耳鼻咽喉科の石川和夫教授は横手の出身です。しかも石川牧師のお父さんと石川教授のお父さんは友達で、二人とも自分たちの長男がヤソにとられたことを嘆いていたということです。しかしこの本によると、石川牧師のお父さんは自分たちの家系にすでに牧師が出ているのを知っていて、石川牧師が献身するときにも黙認をしたようです。
石川牧師とは神学校卒業後はほとんど会うこともなかったのですが、今回その働きの最後に神の深い導きを覚えておられたことを知ることができました。石川正之助の子孫に信仰が継承されています。今度は石川牧師、そして大鍔宣教師の子孫にも信仰が継承されていきます。石川教授の子孫にも信仰が継承されていきます。秋田の湯沢、そして北海道は私自身のミニストリーとしてよく行ききするところです。信仰の先達がすでに労されていたことにただ敬意を覚えさせられます。何としても記しておきたかったのです。
上沼昌雄記
Masao Uenuma, Th.D.
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