「のたれ死に」2013年10月8日(火)

 まったく不思議なことに、過ぎる土曜日に六本木のフランシスコ 
会の本部に伺うことになりました。フランシスコの霊性を探求して 
いる牧師に付いていったのです。そこの神父さんと学び会をしてい 
るというのです。といってもこちらもフランシスコ会の本部でフラ 
ンシスコ会の神父さんにお会いできるのであれば、聞いてみたいと 
思うことがあったからです。

 1639年頃に最上川の山の中に隠れていたキリシタン宣教師 
が、どうも朝日岳を通って、酒田に抜け、日本海を辿って蝦夷の地 
に入り、樺太に渡り、シベリヤを経由して本国に帰ったという話が 
あって、それに動かされて、できるところで調べてきました。その 
宣教師がフランシスコ会であることが分かりました。確かに逃げた 
ことは分かったのですが、その話のようにシベリヤを経由して本国 
に帰ったのかどうなのか、この際本部に伺って神父さんに聞けば何 
か分かるかなという思いがあったのです。

 その最上川沿いには確かに隠れキリシタンがいました。その跡地 
もあります。それだけでなくそこにある称名寺というお寺にはラテ 
ン語のイニシャル INRI 、すなわち「ナザレ人イエス、ユダ 
ヤの王」が記された十字架が掲げられています。そのお寺の案内に 
はその十字架が表表紙に載っています。それを神父さんにお見せし 
ましたら、えぇ、驚いていました。

 簡単に経緯を説明しましたら、ちょっと待ってくださいといっ 
て、ご自分の書籍からご自分が訳された『16-17世紀 
の日本のフランシスコ会士たち』をいう本を持ってきて、記念にと 
言って一冊くださったのです。ぱらぱらめくって、ここに書いてい 
るフランシスコ・アンドレレスという宣教師がそれに当てはまりま 
すというところまでお話しできました。そして確かにこの本でも、 
この宣教師の没年と死亡場所は不詳になっています。

 もしその話しのように本国に帰っているなら、確かな問い合わせ 
は当然あるだろうということです。それはフランシスコ会にとって 
も栄誉なことだからです。実際に聞いたこともないという返事で 
す。それだけでなく、当時の食糧事情を考えても逃げ切ることは難 
しくて、「どこかでのたれ死にしたのだろう」とあっさりと言うのです。

 それを聞いて、400年近く前の自分たちの先輩の殉教の最後 
を「のたれ死に」とはないだろうと思いました。同情しているふり 
もないのです。それが当たり前のように言うのです。どうなったの 
かねと、調べてくれても良さそうにとも思いました。プロテスタン 
トの私が関心を持っていて、本元の神父さんがあっさりと「どこか 
でのたれ死にしたのだろう」と言われて、それはないだろうと変な 
同情心が湧いてきました。

 それでも何か、当たり前のようにいうこの神父さんもご自分がど 
こかで「のたれ死に」しても良いと思っているのだろうと思うよう 
になりました。それがキリストに従う者の生き方として受け止めて 
いるので、自分たちの先輩たちが本国から遠い日本の地に来て、誰 
にも認められないで、のたれ死にしたままで人生を終えることをよ 
しとしているのだろうと思えてきました。それで良いんだよと言っ 
ている感じです。

 連れて行ってくれた牧師の教会で次の日に礼拝メッセージをする 
ことになって、例のイエスのエルサレム入場の際に登場してきたギ 
リシャ人と、それへの応えのような「一粒の麦」のところから、も 
しかしたらそれこそ「のたれ死に」することもあり得るのが一粒の 
麦としての生き方ではないかと、前日のやり取りを紹介しながら話 
しました。実際に一粒の麦が死んだことで、その最上川のところに 
は戦前から戦後、ホーリネスの教会が大きな働きをしています。神 
は何百年後にその実を実らせるのです。

 一粒の麦として「地に落ちる」ことがあるとしたら、それは誰に 
も知られないで「のたれ死に」することであり、自分にもある得る 
ことなのだろうと、あっさりと、当たり前のように言えたらば良い 
のだろうと、ためらいながら自分に言い聞かせています。

上沼昌雄記

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